釉薬(ゆうやく/焼き物の表面をガラス質にするうわぐすり、釉の一字だけでも「うわぐすり」と読みます)を使った色瓦は奈良時代末期からありました。けれども、当時の釉薬は低温で溶けたので瓦を低温で焼いたためか、長持ちせずに評判がよくなく、その後はあまり用いられず、一般には、「瓦といえば燻し瓦」という時代が続きました。 瓦研究家の駒井鋼之助先生によると、明治28年(1895)に平安神宮が創建されたとき、昔の都をしのぶために緑色の瓦を使いましたが、終戦後にお参りしたとき「その荒れているのには驚いた」そうです。なお、平安神宮の瓦は近年になって葺き替えられ、駒井先生からも「今度は三州のトンネル焼きの陶器瓦であるから心配ない」と、遺稿集『古瓦の文化史』の中でお墨付きを得ています。 三州で釉薬を用いて色瓦を焼く試みがなされたのは明治末年のこと。大正3年(1914)ごろには陶芸家の加藤唐九郎氏が三州の地で釉薬による色瓦の研究をしたことも知られています。ただし資金難で長く続けることができず、どの程度まで研究が進んでいたかは、残念ながら不明です。食器に使う陶器はさまざまな色が付けられますが、それとは焼成の仕方が違うため、その技術を瓦に応用することは難しかったものと思われます。 その後、洋瓦の専門メーカーが開発を続け、大正末期には緑色、マンガン色のほかに青緑色も出せるようになったと伝えられています。また、関東大震災(1923)のあと東京で軽い瓦の需要が増え、三州ではこのニーズに応えるため、薄くても実用に耐える瓦を造りました。このとき、丈夫にする工夫の一つとして釉薬が用いられました。 また、昭和4年(1929)には高浜町(現・高浜市)で町立の窯業試験所を設立し、より美しく多彩で丈夫な瓦を目指して、色瓦の研究・開発が行われました。しかし、当時は色瓦の需要があまりなかったこともあり、経費が続かず数年で閉鎖されました。 ただ、この窯業試験所との縁でその後も釉薬を専門的に研究し続けた人物がいます。薬剤師だった北川広吉さん。難しかった色は青緑色で、焼成の温度や酸素供給の具合で焼き上がりの色が違ってくるため、製品が悪い原因は焼き方なのか釉薬なのか判断が難しい。そこで北川さんは、窯元の窯焚きさんと一緒に一晩中、石炭をくべながら研究をしたことが何度もあったといいます。 そんな伝統もあって、三州の釉薬メーカーの技術力は高く、他の瓦産地でも三州の釉薬を用いるところが数多くあるといいます。 多くの人々によって地道な研究と開発が行われてきた三州の色瓦。しかしその努力が実って、ブームが来るのは戦後を待たねばなりませんでした。その後は、洋瓦だけでなく和瓦にも色瓦を求める人が増え、昭和39年(1964)以降、三州では陶器の色瓦の生産量が最も多くなっています。 |
13. よい製品を低コストで・・・機械化 |
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